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大阪で迎えた美しい朝。
また一つ歳を重ねました。
これまで生きてこられた奇跡と、すべての出逢いに、感謝します。

目覚めと共に流れ出した大好きな曲。
二千花のエーデルワイス⇒ (Click!) 

今年も素敵な1年を育てていけますように。
皆さんの幸せを祈りつつ、合掌。
先日、フェイスブックで、以下の投稿をした。

⇒大切な友人がシェアしてくれたCoccoの動画。
ただしいやさしいを、自問自答しながら、聴く。
『ジュゴンの見える丘』
「この歌を2007年6月大浦湾に帰ってきてくれた2頭のジュゴンに捧げます。ありがとう。」
Youtubeの動画⇒ (Click!) 

そして、沖縄をルーツに持つ友人が、この投稿を読んで、以下のメッセージを書いてくれた。
彼女とのやりとりのなかで感じたこと。
新年初の長文。しかも熱がある​ので、まとまりがないけれど、おつきあいください​。

*********

何でだろうね。沖縄の哀しみは、ずっと癒されない。
嫌だと言ったら血の海になるから、涙を流しながら唄うしかない。
どんなひどいことも、許せないことも、生きるだけで精いっぱいだと、
声をあげることもできない。

長い間、貧しさに喘いでいた島に、内地の人はずっと背を向けてきた。
私も何もできないできた。

基地を反対すれば、すぐに隣国に脅かされる沖縄。
その時、内地にいる私は今も家族を守るためにきっと、動くことが出来ない。

きれいごとでは何も解決できないと、いたたまれない気持ちのまま、泣きながら、
家事をして、仕事をして、未来へと時を繋ぐ。

沖縄の悲しみも福島の悲しみも、当事者にしかわからない。

忘れちゃいけないのは、どんな人の血の中にもズルさと生命力という言葉で、
すりかえられた正義があるということだと思う。

毎日感謝というより、罪深さに懺悔をしながら生きるのが、人間なのだとも思う。

*********


その後、彼女とは何度か直接メッセージのやりとりをした。
ジュゴンは沖縄全部。人を含めてを表している、と言っていた。

沖縄の親族との断絶、正しいことが分かっていても、
愛する家族を守るために、できないという現実があること。
沖縄とか、政治家とか、国家とか、そういう言葉では表せない、人間ひとりひとり。
「正しい」って何なんだろうって。

色んなことを想った。
彼女の言葉1つ1つが、私が福島に抱いてきた気持ちと、どこか繋がっている。

沖縄のことも福島のことも、言葉にした途端に、
何か全く別のものになってしまうような気がしてしまう。
それが、ある種の権力や暴力になってしまう怖さもある。
きっと、そう感じている人は他にも沢山いるんだろう。

「当事者」にしか分からない。それは、彼女の言う通りだと思う。
そして「当事者」の中にも、色んな人間がいて、それぞれの状況、考え、
想いがあって、一括りにはできない。

同時に、「外」の人間の暮らしも、沖縄や福島の上に成り立っているという意味で、
否応なしに「当事者」でもある。
その意識、責任を担って生きようとしている人たちも、確かに存在する。
そこにも、また、それぞれの痛み、哀しみがある。
震災のときも、福島のときも、当事者じゃないから「言えない」と口をつぐんでしまったり、
罪悪感を抱いて苦しむ人がたくさんいた。

何かしたい、何か行動したいと思っていても、
何が「正しい」のか分からずに立ちすくんでいる人たちがいる。今も。

でも、その問題の真ん中で、日々の生活を送っている「当事者」じゃないからこそ、
見えること、感じられること、できることもある。

私にとっては、3.11の福島から、沖縄の問題が身近になった。
6年前に初めて沖縄を訪れたときに抱いた複雑な想い。

その理由が少しずつ紐解かれてゆく感覚がある。
それでも、今見えているのは、ほんの僅かな「現実」でしかない。

でも、たとえそれがどんなに的外れな正義感に基づいていたとしても、
自分の問題として意識し、その意識したこと、想いを、
それぞれの「ことば」で発することでしか、新しい「ことば」は生まれない。

純粋な想いは、それが純粋であればあるほど、残酷さと紙一重だ。
私も、これまでの言葉や行動によって、沢山傷つけてきたんだろうな。
でも、相手を傷つけてしまったら、まずは謝る。会話をする。また違う視点を見つける。
​ひとりひとりと、​関わり続けること。
その繰り返しでしか、溝は埋まらないのかもしれない。

人は、どうやったって、罪深い。
自分を生かし、守ろうとする本能的なエネルギーによって、傷つけざるを得ない生き物。
新年明けたときに、自分の中に流れた二千花の『エーデルワイス』も、
昨年『風立ちぬ』を観た時に感じたこともーそう。

それでも、人は生きていかねければいけないし、
そのことを意識してから始まる「生きる」があるんじゃないか、と思う。
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実家の庭に、メジロのつがいが毎日来ている。
みかんが大好き。
近くによっても全然逃げない。

年始に岡山でもらった風邪が、しつこすぎて、1週間ダウン。
ようやく熱が下がり、咳だけになってきて、嬉しいのだけど、
話そうとすると、すぐに声がかれてしまうのがネック。
早くとんだり跳ねたりしたいんだけどなあ。
しばらくは、鳥との会話で我慢。
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水戸で、映画『標的の村』の緊急上映が決定!
2013年キネマ旬報ベスト・テンの1位にも選ばれた、必見のドキュメンタリー。
映画公式サイト: (Click!) 

◆ 日時:2月27日(木)①10時半~12時 ①14時半~16時 ②18時半~20時
◆ 場所:県民文化センター小ホール 料金:前売り¥1000 当日¥1300
◆ 問い合わせ:029-226-3156 詳細は、チラシをどうぞ。

<監督インタビュー>
① Neoneo Web⇒ (Click!)  
② シネマジャーナル: (Click!) 

以下、感想です。

********

国から何の説明もなく、オスプレイの配備も隠されたまま、
なし崩し的にヘリパッド建設を強行された住民たちが、
最後の手段として選択せざるを得なかった工事現場での座り込み。
その住民たちの行為を国が通行妨害の罪で訴えるという前代未聞の事態。

舞台となっている東村高江は、160人の村民が暮らす小さな集落だ。
澄み切った清流と、世界自然遺産の候補にもなっているやんばるの森があり、
その豊かさにほれ込んで移り住んだ人たちもいる。
訴えられた住民の会の中心メンバー、現さんこと安次嶺現達さんもその一人。
川の傍にある手作りの自宅兼カフェを家族で営みながら、6人の子どもを育てている。

現さんが、自宅の畑で作業をするシーンがある。
収穫した野菜で一杯の荷台を子どもたちが倒してしまい、地面に野菜がごろごろと転がり落ちる。
現さんは、焦る気配もなく眺める。
そして、ゆっくりと荷台を起こし、子どもたちに、ほら拾ってと促す。
茄子畑で遊びまわる子どもを叱る時も同じ。その足取りは、ゆったりとしている。
現さんだけではない。奥さんも子どもたちも他の住民も、佇まいがとても静かで、穏やかだ。

最も「闘い」という行為から遠いところにあるはずのシンプルな暮らしの営み。
そうやって生きてきた人たち、生きていこうとしている人たちが、
闘わざるを得ない不条理 が、強烈に浮かび上がる。

彼らが望んでいること。それは、なんら特別な贅沢ではない。
家族や仲間との、静かな、平穏な生活。先祖から受け継いだ、瑞々しい自然、大地。
同じ歴史を繰り返さない。苦しみを次世代に残さない決意。
矛盾だらけの現実に翻弄されながら、それでもなお、
澄んだまなざしを持ち続けている彼らの源に流れているものを想う。

10万人が集結した県民大会の直後、政府はオスプレイの配備を通達する。
そして、その配備の前夜、住民は普天間基地のゲート前に車を並べ、座り込み、
22時間にわたって、完全封鎖する。
同じ県民である警察による強制排除。激しい衝突のなかで響く歌声。

日本人同士で、人間同士で、何故こんな闘いをしなければならないのか。
何故傷ついた者同士が傷つけあわなければならないのか。
一体何のために?
その問いが、胸に突き刺さる。

昨年の11月に観たのだけれど、あまりにも衝撃が大きすぎて、ずっと感想が書けなかった。
日本全国の人たちに観てほしいと切実に思う。上映会へ是非。
12日、六本木森美術館で、プロジェクトFUKUSHIMA!の映画を観た。
原発事故後の夏、福島でフェスを開催までの道のりを、皆が迷いながらも歩んでいく過程が、とても丁寧に描かれていた。
淡々とした映像のなかに、作者の静かな美学や思想が感じられる作品で、観られて良かったと心から思えた。

それにしても、この動揺ぶりは、なんだろう。こんなに静謐な作品でも、やはり涙目になってしまう。
当時の空気がタイムカプセルのように、ぎゅっと凝縮されていて、いろんな人たちの傷とか混乱とかが、そこにあって。
悲しいとか苦しいとかでは、表しきれない気持ち。
無意識の領域なんだろうか。
3.11直後の日本社会を描いた『選挙2』を観た後も、そうだった。
自分がどこにいるのかよく分からなくなるような、これまで慣れ親しんできたあらゆる言葉が吹っ飛んでしまうような、そんな感覚。
何も終わっていないんだ、変わっていないんだ、と思う。
そして、戸惑いながらも、その感覚が今も自分の中に確かに存在することに、どこかホッとしている、失いたくない、忘れたくないと感じてる自分もいる。
これは、これからもずっと続いていくのかな。

トークの時に、大友さんは、今でもこの映画を観るのはキツイと話していた。
そして、藤井さんを監督に選んだのは、自分たちの記録を撮ってほしいと思ったけれど、寄り添われ過ぎても困る。冷静さ、距離感が欲しかった。「藤井さんは冷たいでしょ(笑)、だから出来上がった映像を観て安心した」と。
フェスの盛り上がる映像で、わーっと終わるのではなく、「地味なお寺でのライブ」や、子供たちが線量計を持って放射線を測定する映像ーそんな福島の日常で終わってくれて、ホッとしたと。
安易に分かるとは言いたくないけれど、あ、分かるな、と思った。
「感動的な映画」だったら、グサっときていたかもしれない。

更に、大友さんは、プロジェクトFUKUSHIMA!のメンバーや、盆踊りに関して、面倒臭かったり、好きじゃなかったり、違和感を覚えたり・・だけど、そういう苦手なものの中に入っていく癖がある、と笑っていた。
「1つになる」とか、団結とか、分かりやすく一括りにするものではない何か。
「大きな言葉」や対立軸からこぼれおちてしまうもの。彼の楽譜のない音楽に通じるもの。
きっと、それを直感的に嗅ぎ分ける力が、大友さんの中にはあるんだろうなと、そんな想いで聞いていた。

ドキュメンタリーの後、52階で、Filaments Plays Night Lightsのライブがあった。
もうドキュメンタリーだけでフラフラな感じで、トイレに行った後ばったり大友さんと鉢合わせになったのだけれど、あっ!と呼びとめたはいいが、うまく言葉が出てこなくて、思考力がゼロ・・。
こんな状態で音の洪水に巻き込まれたら、とんでもなく遠いところに運ばれてしまいそうだと少し不安になりながらも会場へ。

夕方と夜とのあいだを音が流れる。
刻々と変わりゆく空の色。無数のビル。遠くにくっきり浮かび上がる富士山。
太陽が傾き、ネオンが少しずつ灯りはじめる。
展望台から見える景色は、あまりに非現実的だった。
でも、あの小さい光の1つ1つに人間の営みが確かに存在する。無数の、見知らぬ誰か。
音が織りなす世界と、移りゆく時間、景色が溶け合って、まるで1つの短編映画を観ているようだった。
題名もなく、セリフもなく、ストーリーすらない、その瞬間にしか存在しない作品。
展示と映画で軸がとんでもなくぶれていて、それでも、どこかに着地したいとも思えなくて。
アンコールがないことにも、何だか救われている自分がいた。

こういう映像が、こういう音楽が、世の中に存在してくれていて、ほんとうに良かった。
こういう作品に出逢える世界に生まれてこられて、ほんとうに良かった。
細川氏が会見で、「腹7分目の豊かさで良しとする成熟社会への転換が求められている」「原発再稼働は、後の世代に対する犯罪行為」「原発コストは実際には天文学的であり、同じコストをかけるなら自然エネルギーの方が、新しい技術や雇用を生み出せて生産的であり、成長の切り札に」「原発を推進してきた世代の責任を果たしたい」と、原発に対して明確なNOを表明したこと、これまで推進してきたことを誤りと認め、生活、国の在り方を180度転換させるのは、今しかないと主張したことに対しては、心から共感するし、どんどんそういった方向性で、行動していってほしい、応援したいと思う。

ただ、会見内容と質疑応答を聞いた限りでは、以下の疑問、違和感が残る。

1.原発を最優先のシングルイシューとして捉えている立場であるにも関わらず、具体的な政策に乏しい。

 記者の「エネルギー戦略会議設立以外の具体的な政策は?」との質問に、言いよどんだ後「例えば?」と聞き返していて、正直、不安に。
都民投票の可能性に言及してくれたのは良かったけど、「東電のどこが問題か?」という質問に対しても、「今のところは具体的には言えない、戦略会議の人選や、対策の具体的な話は知事になってから」では、政策内容が伝わらないし、他の脱原発派との違いが明確には分からず、有権者の判断材料にはなりえない。

2.他の候補者(名前は出なかったけど、宇都宮氏)との共闘について:

 「志を同じくする人が立たないから出馬を決めた」という点について、記者に「同じく原発ゼロを掲げている陣営があるが、そことの違いは?」と聞かれ、「細かくは分からない、どの方のことかも分からないが、その人は、原発ゼロ、再稼働阻止を最優先課題にしていないのでは?」と答えていた。
 脱原発に関して、早い段階で具体的な政策を打ち出している他の候補について学んで、共闘しようとはしなかった、という印象。真剣に実現したいと思っているのなら、普通の市民感覚では、最大限の当選可能性を狙って、他の脱原発派と協力し、仮に共闘が無理だったとしても、最低限、その候補の政策に関心を持つのが自然な行動では?

3.公開討論について:

 ②と関連して、「他の候補者も脱原発を掲げている。具体的な中身を討論する場に、出るつもりは?」との質問には、「皆さんで議論する場というのがあるのか私は知らない。議論するというのは、そこではあまり、どうなのかなと。それぞれが横並びになって、説明する場には出ていく。そこで議論しても話にならない方も多分いると思うので」と発言。個人的には、これがかなり引っかかった。
 「ワイドショーみたいにめちゃくちゃな議論になっても、政策に関する良い判断材料にはならない、テレビやラジオで、視聴者に対して時間をもらってもの申し上げることは、いくらでもやりたい」とのことだけれど、ただ政策表明のみで、議論なしでは、平行線。
違いが見えにくいし、話し合いをするなかで、政策を成熟させていくこと、そもそも全うな議論が(異なる意見を持つ相手に対する礼儀、誠意のある)出来る人格かどうか、ということは、有権者が投票する際に、非常に大きな判断材料になる。

 市民1人1人に開かれた公開討論の場を持つことの重要性に気づいていないというか、そもそもあまり関心がないのかな。市民から遠い人という印象はぬぐえない。
先日三宅洋平氏が、自身のブログで「これから何年かかろうと「市民」がもっと密接に政治に関わっていく社会を作っていくという僕の目的の上で、細川さんには申し訳ないが宇都宮さんと比べて100倍くらいの距離を感じてしまう。」と書いていたが、まさにその通りだと感じた。

 言うまでもなく、仮に当選したら、強大な権力を持つ原子力ムラと闘っていくことになるわけで、「横並び」ではなく、誰とでも顔をきちんと合わせて議論をし、相手の言い分を聞いた上で、いかに新しい方向性を相手に伝え、説得することができるか、粘り強く交渉することができるか、その意志の強さ、誰とでも意見を交わし、議論を深めていくことができる懐の広さ、能力が問われているのだと思う。 

 従来のような討論会ではダメだと思うのなら、別の形の討論の方法を市民と共に作り上げていこう、という風には考えられないんだろうか?少なくとも、そういう気概を持てない候補に、市民に開かれた政治を実現し、原子力ムラと闘う資質があるのだろうか。不安にならざるを得ない。

 私が宇都宮氏に惹かれるのは、常にオープンな議論の場を求めていて、市民の意見に耳を傾けること、市民参加を促し、市民運動を成熟させることの重要性を切実に訴えている人だからだ。
 彼の「『脱原発を実現する最後のチャンス』という声もあるがそういった薄っぺらな運動で、脱原発を実現できると思っているんですか?」という言葉には、これまでサラ金などの多重債務の被害者救済に奔走し、30年かけて、不可能と言われたグレーゾーン金利撤廃の法改正を実現した経験が、反映されているのだと思う。

 私は、やはり市民目線に立って、時には私たちを叱咤し、時には激励し、共に歩んでくれる候補を応援したい。

4.安倍政権の政策について:

 国のありようにも色々物申していきたいと発言したにも関わらず、はじめに「憲法改正、集団的自衛権の行使など、タカ派色が強まっている安倍政権に対する懸念が、出馬の動機に関係あるのか?」と質問した記者に対しては、「必ずしもそれだけではない。色々気になることはある。しかし国政でやることだから、ここで申し上げるべきことではないと思う。」との曖昧な答え。
 そこをIWJの岩上氏に「冒頭で物申していきたいとおっしゃられたからには、集団的自衛権、秘密保護法、憲法改正に関して考えを表明してほしい」と押されて、やっと「集団的自衛権の行使、憲法改正には賛成ではない」と。
しかし、秘密保護法やTPPには言及なし。うーむ・・。

5.小泉氏との関係について:

 ④と関連して、岩上氏や別の記者が、小泉氏が推進した構造改革に関する意見を求め、「立場的な違いで小泉氏とぶつかることはないのか?」と質問。
それに対しては、「脱原発ということで一致してやっているわけで、お互い知りませんし、話し合ったりしません。これからするかもしれませんが、それはお互いすれ違いをするだけじゃないでしょうか」。ここでもう少し突っ込んで考えを聞き出してほしかったな・・。
 小泉氏の過去の政策や、現在の立場に関して、「知りません、話し合ったりしません」で、良しとは思えない。特に東京都知事に立候補するのであれば。小泉氏の政策の結果、雇用が破壊され、格差が拡大し、東京でも大勢の市民が生活苦にあえいでいるのだから。

 細川氏は、原発を最優先のシングルイシューとして出馬するのは、「都知事の第一の任務は都民の生命と財産を守ることだから」と発言したが、今、この瞬間、ぎりぎりの生活を強いられている都民が存在するわけで、この問題を切り離して考えるのは違うと思う。

 同時に、脱原発をそれほど重要視しているのなら、むろん国の政策に、「物申して」いかなければならないのであって、「国政でやることだから」では済まされないのでは。

 更に、小泉氏はイラク戦争に賛同、自衛隊の派遣を容認した人物で、その結果、イラクに核のゴミがばらまかれ、市民が被ばくを強いられることになった。この点に関してはどう考えているのか。意見が聞きたかった。
こういった人間の命や生活、生き方の根本に関わる政策、価値観に関して、相いれない人物と「人生をかけて」共闘する、というのは、私個人の市民感覚からすれば、ありえないことなので、やっぱり違和感が残る。「脱原発のためには、なりふり構っていられない、今しかないのだから、他のことはとりあえず置いておこう」という戦法か、なるほど、とすんなり受け入れることが、どうしてもできない。。
 秘密保護法や憲法やTPPだって原発の問題と繋がっているし、シングルイシューにする、というのは、小泉氏という強力な助人の力を借り、分かりやすく票を集めるための戦略なんだな、政治家なんだから当たり前なのかもしれないけど、そういう駆け引きだとしたら、そういうのは、もうたくさんだ・・というのが、今の私の心境。

 何はともあれ、原発の問題が選挙の争点になり、多くの市民の関心を集め、それぞれが考えを深めるきっかけになるのは、歓迎すべきこと。色んな立場の人たちが、社会に参加する責任や、面白さに目覚める機会になればと願います。
 
 最後に、宇都宮氏か細川氏かで、本来ならば同じ方向を目指している人たちの間で、批判とか攻撃とか分裂が広がらなければ良いなと思う。もう既に始まってしまってるけど。
誰を支持するかは個人の自由。情報を共有したり、意見交換したりしながら、最終的には自分が決める。相手の選択も尊重する。そこまでのプロセスや、これからのプロセスをお互いが大事にできたら、今までよりは良い世の中になるんじゃないか。どう転んだって、これは長い道のりなのだから。

 そういう覚悟を持てたら、目くじらを立てて誰かを全否定したり、結果を見て「もうだめだ」とくじけることはないと思う。