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私は「戦争を知らない世代」だけれども、ニューヨークで、戦争に続く道のりを経験していたのだな、と思う。
先日、プロフィールに元自衛官、とある方のツイートを読んだ。
@yoko_kichi 8月25日
中谷防衛大臣が「存立危機事態」認定に「同盟国の承認が必要」と答弁した。つまり日本の存立危機か否かさえ判断できない日本政府。
決めるのは誰か。もちろん米国だ。世界中のどこかで米軍が反撃され「日本も厳しい」と言えば、政府が存立危機として参戦していく仕組み。情けない限りではないか。

当時のことは、ずっと心のなかにある。
繰り返し繰り返しテレビで流される、あの衝撃的な映像。普段はクラクションや消防車のサイレンで騒々しいのが当たり前の街が、しんと静まり返り、道行く人たちの大半がちょっとした音にびくっと反応し、脅えていた。
5番街が星条旗で埋め尽くされ、アラブ系のタクシー運転手も皆、襲われないためにタクシーに星条旗をつけていた。
行き場のない悲しみや怒り。憎しみ。正義の名のもとに、一丸となって戦争に突き進んでいく光景。大きな言葉にかき消されてしまう色んなこと。
いたたまれなくて、やるせなくて、どうしたら良いのかも分からなかった。
悲しみや恐怖に支配されたとき、深い傷を負ったとき、人は正気ではいられなくなる。それは、私自身も。受けたものの大きさを自覚できていれば、まだいいのかもしれない。歪んだエネルギーになってしまうよりは。
数十万人とも言われる犠牲者を出したイラク戦争には、未だに誰も責任を取っていない。完全に誤った情報に基づいた戦争だと判明してからも、ずっと。
その戦争を支援した日本も検証すらしていない。
そもそも失われた命に対して責任など取れる人がいるんだろうか。結果的にどんどん激化していった対立やテロにも。
今は「戦場に行く」という時代ではない。日本でも、どこにでも突如「戦場」が現れる時代。想像じゃない。現実なんだ。そして、人は過ちを犯す存在なんだ。どうしたって。
後で、あの時に別の道を歩んでいたらと思っても、取り返しがつかない…。
ある体験を特別視しすぎたり、囚われすぎるのも、なんか違う気がして、でも、今の社会の動きを見ていると、いたたまれない。だから言いたい。
あんな光景は2度と目にしたくないし、無残な殺戮に、意味も分からぬまま加担し続けるような国になってほしくない。

最大規模10万人を目指している30日の国会前行動(13時~17時)、両親やその友達家族も何組か参加するそうだ。
母は初参加だけど、周りに聞いてみたら、同じく初めての友達も行く行く!と言っていたらしい。
私は前回、ほとんど声は出さずに、その場にいたのだけれど、幅広い年齢層の色んな人たちの姿や声に触れるだけでも、特別な時間だった。
色んな考え方、関わり方がある。でも、明日、沢山の人が集まるといいな、と思う。
友人の文章。その好奇心、謙虚さ。
分からないから、自分なりに調べて形にして、いろんな人とシェアして深めていくという姿勢が好き。文章もとても分かりやすい。Vol.3まであります→
『りんごの木を植えよう≪安保法案を考えてみた≫Vol.1』 (Click!) 

「今の世の中は政治の話をすることが日常的ではない様なので、私の様な人間は「変わり者」扱いをされることも多いのですが、政治の話をその辺で話せなくなることは避けなければならないと思います。政治の話をタブーにすることで・話せなくなることで、声が大きい人だけが得をすることも十分にあると思うからです。
だから少し安保法案について考えてみます。専門家ではなく、素人の…ちょっと“こうるさいオバハン”が調べたり、考えたりしたことです。だから間違いもあるでしょうことを最初にお断りしておきます。」

政治や社会について語ることは、日々の生活について語ること。
家族や友達、恋人。大好きな音楽や映画。今日見た風景・・
すべてと深く深く繋がっている。
知り、考え、疑問に想い、分からないなりにも身近な人と話してみる。
大切な何か、自分自身の生き方や感じ方、
当たり前にある毎日の営み、愛しい人の存在に改めて気づいたりする。

堰を切ったかのような激しい夕立。
カナカナが鳴き止んだ。
風が通り抜けていく
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岩崎さんの投稿に添付されていた写真
心にストンと落ちる文章に出逢った。
簡単な道のりではないけど、日々の生活のなかで、
それぞれが生み出すこと、まさに「生活」=生きる活動をすること。
私にとっても、これは大きなテーマ。
でも、ヒントはとても身近なところにある気がしてる。

FBでもシェアさせて頂いた際に、ご本人からお礼のメッセージが届き、
なんと、隣町に住んでいらっしゃることが判明。
しかも姉や義兄がお世話になっていたJVC(日本ボランティアセンター)の創生期に、
代表を務めていた方であった。
是非遊びに来てください、とのこと。思いがけぬご縁に恵まれて感謝。

というわけで、長文だけれども、添付させて頂きます。

岩崎駿介さんの投稿より
 (Click!) 

これから、どんな「社会」が待ち受けているのか・・・僕なりに「思考」を深めるために(その4)

先回までの投稿で、われわれが物質的に豊かな生活を送れるようになったのは、「近代科学技術」のおかげであると言ってきた。しかし、地球がいよいよ「有限」に達した現在、無限を前提とする近代科学技術はその役割を終え、われわれはいよいよ「新しい社会」、「新しい技術」を模索しなければならないと記述してきた。それでは、その新しい社会とは何か、人々は、どんな暮らしをしながら、「どんな喜び」を見つけることが出来るのだろうか。

いかなる思想、文化、文明も、基本的にはその「環境」によって規定されてきた。その環境を生き抜くために「思想」が生まれ、その思想に基づく技術や生活様式が決定されて、人々の「生命」を保証してきた。
いま、地球は有限であるという限界に達して、当然その価値体系や生活様式を変革していかざるを得ない。物質的に豊かな生活を「生きがい」としたこれまでの生活と違って、これからの世紀は何が「生きがい」となるだろうか。

まず言えることは、それは恐らく「もの」ではなく「精神」だろうということである。「もの」の成長はこれ以上望めないので、「心の充足」こそが求められ世界がやって来る。
物質的には、世界人口100億を越えても、それぞれの地域で地域循環を基本する生産方式によって、人々の生命はほぼ保証されると思うが、「生きる目標」、「生きる喜び」は別に設定されなければならない。

僕は、その時のキーワードは、「自分で作り出すこと」であり、これを「創造」と言ってもよい。誰かの命令に従うのではなく、自分自身で作りだすことに人々は夢中になると考えている。
作り出す対象は何でもよい、適正技術のさらなる開発でもいいし、花を愛でることでもいい、いうなれば、無から有を生じさせる何ものかを作ることである。それでも、生きるための条件、すなわち水と食料の確保、今よりも節約しなければならにエネルギー消費、そして廃棄物として捨て去ってしまうのではなく、何回も再生しながら利用する各種の資源など、さらなる工夫を重ねていかねばならない。
しかし、遠くから運ばねばならない贅沢なものは、とても手に入りにくくなると思う。

しかし、何よりも未来社会において特徴的なことは、「人と人との関係」である。
人と競争しながらも仲良くするという関係は、これからも続き、この関係は恐らく永遠に残ると思う。
しかし、今のように競争に負けた相手をただ見下すだけではなく、その人を追い込まない何かの「装置」が、より巧妙な形で生まれ出る可能性がある。それは、競争によってたとえ相手を打ち負かしても、もうすでに地球が絶対的な大きさに達しているので、共存の道、あるいは生態学的なつながりの道を再確認して進まなければ、勝者自身が生きてゆけないからである。
その意味で、いうなればこれから、ほぼ完ぺきな形で「平和な社会」がやってくる可能性がある。人類が求め続けてきた道、「競争と共存」とを同時に可能にする道を、ようやく切り開くことが出来るのかも知れない。

しかし、一番の問題は、そこに至る「道筋」である。地球は、これからいよいよ最終的な「競争の場」へと突入していく。過酷な「戦争」と過酷な「環境破壊」が予想される。今まで経験したことがない地球の「絶対限界」を前にして、人々は戸惑い、すぐには自分の「価値感」を変えることが出来ない。自分の「考え」や「価値体系」を変えるには、苦い「経験」が必要なのだ。
その意味で、僕はこれから数度に渡る「原発事故」や抜き差しならない「戦争」が待ち構えているように思うのだ。

人々が、それを前もって予見し、その危険を避けることが出来るか。皆のさらなる努力によって「適正技術」がより広く流布され、他人を足蹴にしなくとも生きられる社会を作ることは出来るだろうか。
その意味で、僕は、「右に習え」という風習が骨の髄までしみ込んでしまった日本人が、どう自らを制し、真摯な努力を続けることが出来るかが「未来」を切り開くことが出来るか否かを決定すると思う。
なお、写真は僕の著書「地球を生きる」上巻の表紙に使った絵であるが、数度の原発事故で焼け焦げている地球を前に、始めて人々は手をつなぐことが出来るという、僕がサイト「Anonymous ART of Revolution」において見つけた、予見的絵画である。
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昨日「はじめての福島学」を購入。
前に読んだ「フクシマ論」は結構難しかったけど、これはすごく読みやすいし、
示唆に富んでいて、お勧め。
著者の開沼さんが、この本を書いた動機や、
福島と震災後あちこちで語られてきた「フクシマ」との乖離、
そのジレンマと、それを解消する必要性について、ロングインタビューで語っている。

福島と「フクシマ」は違う 社会学者開沼博さん - 毎日新聞  (Click!) 

以下抜粋

「福島6点セット(避難・賠償・除染・原発・放射能・子供たち)」から語る福島は、
福島を「フクシマ」にするためのスティグマ=負の烙印(らくいん)=につながりやすい。
「理解の復興」が遅れることで、現実に福島で暮らす人がさらに傷つき、
追い込まれるという事態も起きている。

 この本で福島の問題は「6点セット」の問題ではなく、
「地方が普遍的に抱える問題」であるとあえて強調しています。
福島で今起きている問題はどこでも起きる可能性があるからです。
原発事故が起きたことで浮かびあがったのは
地方の人口減少・少子高齢化であり、医療・福祉体制の崩壊であり、
決して持続可能ではない特定の産業に頼ってきた構造が、衰退していくという問題です。
残念ながら、福島では原発事故で、それらの問題が起きる時間が他の地域より早まった。
その問題を一緒に解決しよう、考えようという姿勢が福島の問題を考えることなのだ、という主張です。

 だから、一緒に考えられる問題であり、あなたの足元と地続きの問題なのだ。

 原発事故は重大ですが、そこから引き起こされた問題は特殊なものばかりではない。
そのことに気づかなければ前に進んでいかない。それが5年目の現実です。

 弱者や少数意見を「外から、上から」代弁するのではなく、もう少し幅を広げてみる。
「一緒に解決できる問題って何だろう」「自分にできることって何だろう」と考えることが、
最後は当事者の内外を超えた共感と問題解決への思考を広げていく道です。
「福島の人のために何かできることはないですか」なんて問いに、多くの人は答えようがない。
「福島の人」って、200万人ほどいる中で、そもそも誰ですかという話で。
そんなの何とでも答えられる。
そうではなく、「○○○」という問題を解決したいから意見を聞かせてほしいと投げかける。
これなら共感する人は声を上げてくれるでしょう。

 そのためにも必要なのは福島の現状を正確に認識することです。
ばらばらになっている「情報」の波にのみ込まれて迷わないように、
「情報」を自らに血肉化した「知識」にアップデートするためには体系的な整理が必要です。
これまでのような唱えるお題目が先にあり、事例がついてくる。
そういうモードはやめたいですね。
3月10日にNHKで放送された「Live!Love!Sing!」。
公式サイト→ (Click!) 

「その街のこども」「あまちゃん」の制作チームが手掛けたドラマ。
なんかすごそうだ、と楽しみにしつつも、観るのが怖くもあった。

********

登場人物が、交わるようで交わらない、そのバラバラな感じ。
善意や正義感が凶器になってしまう瞬間。
一筋縄ではいかない、それぞれの感情。
正しい一つの答えなんて、どこにもないということ。

ある日を境に突然現実が非現実になり、
日常が非日常になる不条理。
映像にも音楽にもすごい力があった。

主人公の夢ー祭りのシーン
亡くなった人も、生き延びた人も一緒になって踊る。

「放射能はないつもり
爆発なんてないつもり
強い絆があるつもり
だから心配ないつもり
地震も津波もないつもり
日本はひとつであるつもり
それで安心なつもり
地球はつもりで回ってる
みんなつもりで歩いてく
そういうつもりで眺めてみれば
僕らはみんな生きている」

なかったことにしないと生きていけない気持ち
なかったことにすることへの痛烈な批判、疑問符
でも人間ってそんなに立派じゃないし
生きてくって、あんがいそういうもんで。
鎮魂の歌でもあり、風刺の歌でもあり、人生賛歌、希望の歌でもある。
震災後に毎年福島で踊っている「ええじゃないか音頭」に通じるものを感じた。
お祭りという、境目のない、ごったまぜの世界。
でも、実は、僕らはみんな、
そんなわけわからん世界に生きている。

********

このドラマが全国に届いたのは、すごいことだと思う。
震災後、感じたもやもやが、あちこちに散りばめられていて、
当時のいろんなことを思い出した。

「福島を繰り返すな、忘れるな」
「子どもだけでも避難させた方がいい。」
「当事者が声を上げないと変わらない。なぜ福島の人たちは、もっと怒らないのか。」
「心をひとつに」「絆を大切に」
あちこちで、震災と原発の被害を受けた人たちに、心を寄せる声が上がった。
勇気づけられたり、気づかされることもたくさんあった。
でも、福島という言葉が独り歩きをしてしまう現実に戸惑う自分がいた。

忘れなきゃ生きていけない人もいて
被害者だけど加害者でもあった、と混乱している人もいる。
​福島に「残ってる」と言われることに傷ついていたり、
​​移住しても、大事な人たちが「危険だ」と離れた場所に住み続けていて、
​​新たな土地で再出発なんて想いには、なれなかったり。

私の姉家族は、福島から岡山に移住したけれど、つい最近までデモに参加することはなかったし、
政府や東電を表立って批判したり、賠償請求をしたりもしなかった。
自給自足を目指して、地道に育ててきた生活。
「奪われた」といえば、その通りだと思う。
でも、彼らなりの哲学があって志した道で、想いがあったからなおさら、
その生活をお金に換算することは、
二重三重に、自らを否定すること、されることでもあったのだと思う。
今までは自分たちの暮らし方が大好きで、誇りもあった。
世の中を少しずつ良い方向に変えられるかもという、ほのかな希望も抱いていた。
でも、結局、こんなことが起きてしまった。
これまでと同じように新天地で農地を耕しても、それは自己満足なんじゃないか。
これからどうやって生きていけばいいんだろう。
月日が流れても、時折どうしようもない無力感が襲ってきて、
なかなか前向きにはなれなかったと義兄は言っていた。
そして、私自身、こんなに近しい肉親の気持ちすら、十分に汲み取れてはいなかった。
それ自体は、そんなに悪いことではないというか、
そういう余白みたいなものに、お互いが救われているとも思うのだけれど。

ただ、これもあくまでも1つの現実のほんの一部でー

3.11が近づく度に、福島に関するドキュメントが放送される。
その映像はどれも貴重だけれど、繰り返し描かれる「福島像」に、
福島だけの問題じゃないのにな、とジレンマを感じることも多い。
「悲惨」なだけが福島じゃないし、福島=原発=放射能でもない。
姉たちも含めて、みんながみんな毎日悲しんでいるわけでもなくて、
それぞれの日々の生活があり、それぞれの幸せがあり、不幸がある。
震災前も震災後も、それは同じことで。

露出した問題も、震災前から存在していたことでもあり、
どこかで断絶してるのではなく、ずっと続いている。

形にすると、境界線ができてしまう感じ。
福島、という二文字も、二元論に吸収されやすくて、
言葉にした途端、違うものになってしまう。
だから、姉たちのことを誰かに話すときも、なんだかもやもやする。
「復興」、「被災地」、「被災者」という言葉も、実際にその土地に行って、
色んな人に会えば会うほど、しっくりこないというか、
あまり使う気になれないのも、そういうことなのかしら

・・・そんなこんなで、いろんな想いがどーっと押し寄せて、
ドラマを観た後は、妙な感じだったなあ。
どこか怒っていたような気もする。
突き放したかったのかな。
感動したり、カタルシスにはしたくないって歯止めが効いたのかな。

今もなお続いている多様な現実をフィクションで描くこと。
制作に関わった人たちは、きっとそれが持ち得る暴力性に葛藤し、
悩みながら作ったはずで、だからこそ、混沌を混沌のまま描こうとしたのだろう。
大人でも子どもでもない高校生を主役にしたのも。
あの喜怒哀楽が突発的に出てくる感じ、
泣いてたと思ってたら笑ってる感じとか、
存在自体が尖ってて、でも、どこか希望を体現していて、
大人が主人公だったら、あの空気感は出せなかったんじゃないか。

それでも、こないだの短いバージョンでは、伝わってくるものが断片的すぎた気がして
「劇的」な要素だけが浮かび上がりすぎてしまう、というジレンマを随所に感じた。

冒頭で、主人公が「神戸みたいにちゃらくない」と叫ぶ場面、
あの言葉じゃないといけなかったのかな・・。
あえて選んだとしたら、何を投げかけているんだろう。

酪農家さんのシーンにざわざわしたのは、
あまりにたくさんのドキュメントなどで、
ある種「福島の悲劇」の象徴になってしまっていて、
抵抗を覚えたからかもしれない。

先生役の彼氏がいきなり母親との確執を吐露する場面や
海辺で旦那さんを失った未亡人が泣き叫ぶシーンも、
前後の繋がりが抜け落ちているような唐突感があった。
2つとも、主人公が「ちゃらい」と言ってしまった神戸の震災が、
形としては「復興」していても現在進行形であったり、
同じ福島の震災を体験している彼女にさえ、善意の言葉ですくいとれないものがある、
ということに気づく重要なシーンだと思うけれども。

タイムカプセルを開いて、過去の空気を解放する場面。
「つもり」を希望に変えようとする瞬間には響くものがあって。

それでも、あの一日を体験した主人公が、
「しあわせ運べるように」を歌えるようになるには、
あそこに着地させて、そこにリアリティを持たせるには、
もっとたくさんの階段が必要な気がした。

生きていくには希望が必要で、
ドラマの力も、そういうところにあったりもして。
でも、そうだとしたら、なんか戸惑ったまま、少しだけ希望を匂わすような、
そんな曖昧な表情で終わるぐらいが、今の私には丁度良かったのかも。

なんだかんだ、まだ近すぎるってことなんだろうな。
う~ん。ずいぶん自分にとらわれている気がする。面倒くさい。

神戸の震災から15年後を描いた「その街のこども」は、とても心に響いた。
ふとした瞬間に、どうしようもなく観たくなる、そんな作品だ。
震災当時は子どもだった男女が、偶然15年後の式典の前日に神戸で出逢い、
夜明けまで共に神戸の街を歩く物語。
淡々としていて、ほとんど何も起こらないのだけれど、
ふたりの心の動きがゆっくりで、ぼんやりしていて。
どこか「当事者」じゃなくても入り込める隙間、余白があった。
ただ、自分にとって、やはり距離があって、年月も経ったから、
そう感じることができたのかな・・

自身の立ち位置に向き合わされたというか、足元がぐらぐら揺れた。
たぶんこれからもそうで、そうありたいとも思う。
きっと、多くの人が、それぞれの揺れを感じたはずで、
それが、このドラマの真髄なのかもしれない。

********


3月24日
追記。

さっき、ふと目に留まったある文章を読んだ。

<5回目の3.11によせて 思っていたこと>→ (Click!) 

とても、とても近くに感じた。

誰が書いたんだろう・・と思ったら、南相馬出身の友人であった。
このタイミングで出逢えるなんて、なんだか不思議。
うれしかった。

震災を忘れることはないと思う。
でも、その「震災観」に囚われること自体が、
ある意味「風化」であり、思考停止に繋がっていたりもする。
私も私なりに、その瞬間瞬間に世界、他者とのあいだに生まれるもの、
生まれ続けるものを感じて、良い加減に生きていければと思う。
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昨年出演させてもらった茨城放送の「えこのはなうたのススメ」で、仲良くなったプロデューサーの松田さんと谷津さんのご紹介で、本日、茨城放送の「いっセイのSay!」に出演してきました。
さとう一声さん、とても素敵な方でした。ディレクターの武井さんにも大変お世話になり、心より感謝申し上げます。
番組では、15日まで開催のドキュメンタリー映画会310の紹介をさせていただきました。
仲間が録音してくれていたので、良かったら聴いてください~。
 (Click!) 
13日上映の『先祖になる』『ASAHIZA』を中心に話をするはずが、15分あっという間で、『ASAHIZA』が駆け足になってしまったのだけが、心残りだけど、楽しい生放送でした。
『ASAHIZA』については、過去のブログにも書いているので、こちらもご興味のある方は是非。→ (Click!) 

現在、ばたばた陶器市に向けて制作をしつつ、小さな春を見つけてはワクワクしています。
作業場は、器で足の踏み場がなくなってきているなあ・・そろそろ素焼きするか~。
みなさんも、素敵な春をお迎えください!
あの映像は合成だという意見もあるし、人道支援をされていたアメリカ人の方の映像を見た時、出血もなく、すぐに映像が切り替わり、すごい違和感を感じたのは事実。
何が本当なんだろうか…。よく分からない。無事であってほしい。
ただ、これからますます国内テロの脅威が増すことだけは確かだと思う。無防備な日本には、なすすべなし。「積極的的平和主義」がもたらすものは、その言葉とは正反対のもののように感じる。

ちなみに、昨日友達と、あの名称はイスラムすべてが悪という印象を与えるから、やめてほしいと話していた。ほんと良くないな、と思う。
こんな記事も→緊急提言:マスメディアは「イスラム国」という呼び方を即刻変更せよ!(新井克弥) - BLOGOS(ブロゴス)  (Click!) 

そして、とても良い記事がネット上に。これは多くの方に届いて欲しい。→わたしはシャルリじゃない。 (Click!) 

この世のなかに一括りにできるものなんて、何一つない。だからこそ豊かなんだと思う。平和って、そういう意味なんじゃないかな…。

同時に改めて、良い中学高校時代を送らせてもらったなあと思う。カソリックのインターナショナルスクールで、色んな人種の色んな信仰の持ち主がいて、それぞれの慣習を大事にしていた。ラマダンの時、ダイエットがてら、ムスリムでもないのに一緒に断食した女子が沢山いたのには笑ってしまったけど。

テロ行為は、許されるものではない。けれど、何故ISILが台頭したのか、その背景を理解しなければ、戦いの連鎖は終わらないと思う。
弁護士の伊藤和子さんが書いた記事に心から共感する。
「いま、私たちができること。」
 (Click!) 
会う人会う人に、日曜日は選挙だね、と話をしている。
今回の選挙は行かないという友達に、私があーだこーだ言うより、これを読んでもらいたいなと思い、送ってみた。心変わりしてくれますように。とても良い記事です。
【総選挙2014】首相が「どの論点を避けているか」にも目を向けてみる(山崎雅弘)|ポリタス 「総選挙」から考える日本の未来⇒ (Click!)  ‪#‎総選挙2014

最高裁判官の国民審査については、マスコミもほとんど報道しないので、あまり情報がないのが現実。
以下、参考になります。
今回、国民審査を受ける最高裁裁判官の関わった、主な判決。→【総選挙2014】総選挙と同時に行われる最高裁判所裁判官国民審査とは⇒ (Click!) 
沖縄に関連する判決について。こちらもぜひ。 / 最高裁国民審査 沖縄密約、高江を判断 2氏、県関連で判決⇒ (Click!) 
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1年前、プロジェクトFUKUSHIMA!のフェスに参加して、盆踊りを踊りまくった後、茨城に帰ろうと、駐車場から車を出そうとした瞬間、大友さんが前を横切った。
あのタイミングで、大友さんとバッタリ出逢わなければ、このイベントは実現していなかったかもしれない。人生って、つくづく不思議なものだと思う。
(2013年9月13日 福島で大友さんと: (Click!) 

大友さんの言う、ぼやっと世界を見ること、感じること。
そこから見える景色、開ける世界があるということ。
プロジェクトFUKUSHIMA!の在り方、祭り、音遊び、そしてノイズ。
すべては深いところで繋がっている。
そのことを体感できた1日だった。

お客さんもスタッフも、みんな、ほんとうにいい表情をしていたなあ~。
幸せな時間でした。

大友さん、参加して下さった皆様、そして大好きな仲間たち。
1人1人に、心から感謝します。
ほんとうに、ほんとうにありがとう。
そして、Vol.2をお楽しみに!!

当日の写真は、Facebookで⇒ (Click!) 
音遊びの動画も♪♪⇒ (Click!) 
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28日のOTOTOMO×大友良英@益子町駅舎。
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当日、スタッフの半分以上が太鼓を叩くということで、どさくさに紛れて?二部のオープニングに少ーしだけ演奏することに。
普段一緒に活動しているアフリカンバンド、Djebenutsのメンバーも参加してくれるとのことで、早速練習してきた!
現場監督を務めてくれた友達の赤ちゃんが、微妙な演奏になると、あからさまに嫌な顔をするので、一同大爆笑。テーブルから皆を見下ろす姿が貫禄ありすぎて、みんなで「社長」と呼んでいた。
いやー楽しかった~~♪
やっぱ音楽ってサイコーだな。
当日、鳴り物を持って参加してね!みんなでアンサンブルしましょう~!
(注:大友さんのトークも素晴らしい!!ので、是非一部二部通しでのご参加を!!)